2012年7月16日月曜日

猫の家計




お金の話を口にすると、なぜか人品がイヤラシくなるというのは、見栄の世界を大事にする江戸文化のなごりなのだろうけれど、大学にも経済学部経済学科という専門の学科が設置されているように、学問としても、もちろん一般的な生活の問題としても、お金は大切な問題であることには間違いない、

江戸文化と書いたのだが、大阪をはじめ関西の文化圏では、お金のことを話題にすることにあまり躊躇はしないようなのだが、どうだろう、、

例えば、日常よく起きる冠婚葬祭で祝儀、不祝儀に幾ら包むのか、これなども悩ましい問題ではある、

悩ましい問題を、自分一人の判断で乗り切っていくのか、まわり近所の知人と相談できるのかで、人との関わり合い方の濃度が変わってくる、
相談できる関係はできない関係よりも密であるだろうし、密である関係を地域の文化が支えているのだとも思える、

ネットなどで、「祝儀の額」とかの言葉で検索すれば、すぐにヒットするだろうと思われるのだが、ネットが無かった時代には、

アパートの大家さんの92歳の母親が亡くなった場合など、
「なあ、あんたんとこなあ、幾ら包む、うちとこはあんまり付き合いも深う無かったし、片手でどうやろうなあ」
「あんたんとこが片手なら、うちとこだって片手にさせてもらいまひょ、見栄張ることもないやろうしなあ」

そんな率直な会話が、関西でなら交わされていそうな気がする、


ぼくが子どもの時には、東京の下町葛飾区などでは、祭礼の際に、回覧板が回ってきて寄付を求められていた、
金額は幾らと決められていたわけでなく、あくまでも”お気持ち”次第ということなので、そのお気持ちが悩ましい、、

10円でいいのか、100円なのか、まさか1000円ということはないだろう、
毎日の買い物をする中、1円2円の額を判断材料に、その店で買うか買わないかを決めていた義母にとって、お気持ちというのならば、5円くらいが相場というものだったはず、

自分が5円しか出さなくて、もしご近所が100円も出していたら、それは義母の恥になる、
そんな懼れが彼女の頭を横切っていたはず、
だとしたら、隣近所は文字通り近い目の前なのだから、さっさと訊きに行けばいいようなものなのに、たぶん行かなかったと思う、

お気持ちでという上辺の建前と、お気持ちといっても相場はある、相場くらいはいい歳をした大人だものわかっているよね、という本音に挟まれて、しかも、お金のことを口にするのは、はしたないという地域文化にも苦しめられて・・、

前段の話が長くなった、、まだ前段かよっ 

で、我が家の二匹の猫の食事代トイレ代にかかる金額はおおよそ2万円、月に2万円である、
月に2万円はそれほどでもないといえるのだが(いえるのか)、年に24万円になる、、

24万円・・、


これは大きい、家族でちょっとした海外旅行ができる金額になる、
10kg5000円のコシヒカリが480kgも買える金額になる、

これ以外に、3種混合ワクチン接種代金やら、便に虫がいるようだ、血便がでたようだと、何かとかかる医者代は別途、病気にでもなって手術ということになれば10万20万というお金が飛んで行く、

猫を飼うのも必死なのだ、
その必死さに耐えられなくなりそうな年金生活が始まったら、もう猫は飼えないね、今飼っている猫で最後にしましょうね、とは家人の弁、、

そんな家人でも、アメショーやロシアンブルーの子猫が道に落ちていたら、またすぐに拾って飼うことになるのは決まっているのだけどね・・、



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