2012年9月10日月曜日

友人



昔、島で暮らしていたことがあると、ここで何回か書いた、
島で知り合った島民とは、あれから30数年経った今でも何人かと交際がある、

島でぼくが担当したさまざまな仕事の中に、島中の各家庭にプロパンガスを配達するという仕事もあったので、島のすべての住民の家と名前と家族構成を知っていた、
家族が多ければガスの消費も多く、あのうちはそろそろ無くなる頃だと、予測が立つからだ、

同じ苗字が多い島では、戸籍上の苗字よりも屋号の方が通りやすく、トクベエ、ジロベエ、などという屋号でお互いわかりあっていた、
今でも、ほとんどすべての屋号と顔を覚えている、
配達のルートを自分で工夫し、後ろに戻ることがないようにしたので(車での配達を少しでも早く終わらせるために)、何人かの氏名を忘れていても、その場所を思い出せば、Aの名前がでてくれば次はBだと、芋の蔓のようにずるずると記憶が引きずり出されてくるのだ、


大学を中退し、ボストンバッグ一つとサッカーボール一個だけを持ち島に渡ったのは25歳の秋だった、
いきなり来られても困りますという相手の制止にも、こちらにはこちらの都合があるのでどうしても今晩の船に乗ります、と押し切り、無理矢理押しかけた、
押しかけなければ、自死か行方不明か、まあ、そんなところだっただろう、

その時に知り合った島民、また同じように都会の生活に見切りを付けて島へ渡った数十人の先輩やら後輩やら、その人たちの特徴と氏名は今でもはっきり覚えている、

すごいね、とても記憶力が良いね、と毎回誉められるくらいには覚えている、
ぼくにとっては恩人たちであったし、島はオアシスだったのだから、、
オアシスというのは誇張したり美化したりした表しようではなくて、都会という砂漠で遭難しそうだったぼくにとっての、まさに実感なのだ、

特に仲が良かった友人とは毎年一回の割合で会い、酒を飲みながら歓談の時をもつ、
友人が島から上京し(※島では、東京に行くことを”江戸へ行ってくる”といったりする)てくると、連絡があり、時間があえば惜しまずに出向いていく、

会う場所はいつも浜松町、夜11時に島へ向けて船が出るので、乗船客にとって都合がよいからだ、

先週の土曜日、ひさしぶりに友人とその奥さんと三人で浜松町で呑んだ、
後から、ぼくの長女も合流し、4人で船が出発するまでの数時間、居酒屋で歓談した、
娘が島を出たのは小学校一年生の時、彼女にとっても30数年ぶりの再会なのだ、
30数年という時は、人の顔を朧にし、当時の記憶もかすれさせるものなのだろう、

友人は娘を覚えていても、娘は友人の顔をかすかにしか覚えてはいなかったようだ、
7歳だった彼女にとって、同級生や先生ならばともかく、お父さんのお友達、までは、記憶に残らなかったようだ、

島はいいよ、疲れたら島へ行くといい、どんなストレスも島で1年も暮らせば治ってしまうだろう、
都会とは時間の流れが違う、満員電車も渋滞もない、周りは海だけ、春も夏も秋も冬も海だけ、
海が好きなら島へ行ったほうがいい、うん。。

※写真は竹芝桟橋夜の11時ごろ、出帆前の光景、懐かしくて涙ちょちょ切れるわ・・、



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