2012年12月15日土曜日

餅にまつわるあれこれ






先年購入したホームベーカリー、わかりやすく言えばパン焼き器、最近、パンを焼くこともあまりなくなり、使用する機会は餅を搗くことばかりが多い、

餅米を洗い10分程度水に浸し、ざるに上げて水を切ったら、所定の水の量(餅米3合に対し260cc)を加えて器械に入れ、スタートボタンを押すだけ、
蒸して搗いて(こねて、だけど)がすべて自動で一時間弱で餅ができあがる、

搗き上がったばかりの餅を辛み大根のおろしにまぶして食べたり、少し置いてからフライパンで油を敷かないで焼き、七味醤油で味を付け海苔を巻いて食べる通称磯辺巻き風も美味しい、

餅が好きで真夏でも朝から雑煮でかまわない、
食が太いというのか、胃腸が丈夫だというのか、朝から焼き肉OKなので、餅なんかなんでもない、

以前、JR新橋駅の近くにお粥専門店があり、新橋からバスで江東区豊洲まで通っていた頃なので、バスの待ち時間を利用して、その店を利用したことがあった、
中国粥というのだろうか、大鍋にたっぷり沸かせた水気の多い粥に、トッピングでお好みの具を載せるだけのシンプルな品だったが、目覚めたばかりの躯に、口を通して食道を伝わって落ちていくそれはいかにも優しい食べ物のような気がして利用頻度が多かった、、
今思い出せば前の晩に酒を飲み過ぎたときなどに、立ち寄ったことが多かったようだ、

粥は、漱石のような胃弱者には格好の食べ物なのかもしれない、
ぼくのように、焼き肉も粥も餅も同じ、朝から差別なく区別なく当たり前に食する人種にとって、粥だから餅だからと格別に思いを寄せることは、はっきり言って無い、、
焼き肉も旨いし餅ももちろん美味いし、粥だって美味しい、
丈夫な胃腸でよかった、
こういう場合は、丈夫に生んでくれた親に感謝、と書くべきなのだろうか、、

子どもの頃、小学校に上がる前から上がって三年生になったばかりの頃まで、父親の仕事が定まらず職を何度も変わり引っ越しばかりをしていた、
家賃を溜めて夜逃げをしたこともあったのだと思う、家に帰ったら布団も食卓も電球さえもなくて真っ暗ながらんとした中に親だけがぽつんと座っていたこともあった、
小学校だけで6回転校した、

ある年の正月、父親が「今年の正月は寝正月だ」と言う、
寝正月の意味が精確にはわからず、なんとなく寝ているのかなあと想像していたら、一月一日の朝、そのとき一緒に居た父親の二度目の妻と父親は布団の中で二人で寝ているばかりで起きても来なかった、
朝ご飯もない年の初め、元旦の日、寂しかった泣きたかったというのはなくて、とにかくお腹が減って困った記憶しか残っていない、
その年は、雪が降った正月で、外では同じ年頃の子どもがその家の家族らしき大人たちと凧揚げをしていた、綺麗に着物を着せてもらっていた少女の頭に赤いリボンが載っていた、
ぼくは、朝飯も食べていなくてお腹が減っていることがその人たちにばれないように、少女が突いている羽根や、曇天の空に悠々と揚がっている凧を眺めていたように覚えている、、

正月だからご馳走が出たとか、餅が食えたとかの記憶をたどってみると、幼年時代少年時代にはほとんど無いことに気がついた、
東京での生活、そこが破綻すると送られた熊本の祖母の家、東京と熊本を行ったり来たりしていた幼年少年時代だった、
熊本で食えないことは一度もなかった、
祖母は倹約家で日頃の生活も食事もつましかったのだが、野菜や米は豊富にあり、好きなだけ食うことができた、
ほとんどの野菜を自家栽培し、鶏を飼い豚も販売用に飼っていた、
子豚を買って大きく育て、売りに出すのだ、
その豚が売れた時などに、人吉市に出向き、肉を買ったり魚を買ったりしたのだと思う、
饅頭も作ってくれたし、麦芽糖を利用して飴のようなものも祖母が作った、

小遣いをもらった記憶はないのだが、だからといって食に飢えたことはなかった、、
学校に行けば図書館があったし、たまに父親から送られてくるぼくの食費代を祖母から少し分けてもらってバスで人吉まで行き、学校の勉強で使う参考書を買うことが、ぼくの現金利用の主な使い途、存分に食えて好きなだけ勉強ができたのだから、熊本での生活はぼくにとって今思い出しても一番幸せな時代だった、
幸い学校での成績も良かったので、祖母にとっても自慢の孫だったのだろう、
生き仏のように大事に育ててもらった、

東京に戻ると、熊本とは違い気を遣う毎日が続いた、
そのときには、父親の三度目の妻がぼくを迎えた、
その妻と同居していた妻の母親、義理の祖母は、ぼくのことがあまり好きではなかったようだ、

ぼくにとっての三度目の母親となった女性は、大柄な女性で身長が172cmもあった、
父親は162cmしかなく、つまり昔風にいえば蚤の夫婦だった、
そのことを義母はいつも気にしていたようだ、
義母は、ぼくの父親との結婚が三度目、今まで子どもを産んだことがなく、そのことをあからさまでなく陰で義母の大柄な体格にかこつけて卑猥に噂する周囲の声が義母の耳にも届き、悔しくて泣いたこともあったのだとか、

大柄な女だから大味で子どもも産まれないのだろう、
そんな周りの陰口を蹴飛ばしたくて、子どもさえ産まれればどんな男でも良かった、こぶ付きでも良かったのよ、こぶというのはぼくのことなのだが、そんなことを言われたこともあった、
父親には実際にぼくという子どもがいたので、その意味で種はある、たしかに生殖能力がある、そのことが義母が父親を三度目の夫に迎えた大きな利用だったことは否定できない、

義母と義母の母にとって、ぼくが勉強することが好ましいことではなかった、
勉強してもお金が入ってくるわけではないし、むしろ、家の手伝い、風呂を沸かしたり七輪で炭に火をつけたり、夕方の食事の買い物をし、義母が読む芸能週刊誌を買いにいき、金魚の水槽を洗い、トイレで使う新聞紙を切ったり、内職を手伝ったり、そうすることが良い子の条件だったようだ、

学校の勉強に遅れないか、気が気でないぼくを尻目に、終わっても終わっても後から用事を言いつけられた、
義母と義母の母親の家に転がり込んだ形の父親とぼくは、父親は朝仕事に出かけ夜まで帰って来ないのでまだ気が晴れるものの、ぼくは学校から帰ってくれば、必ず手伝いが待っていてずいぶんと働いた、
この家の人に食べさせてもらっているという意識から、文句を言うどころではなかった、

ある日曜日、仕事に出かけたはずの父親が早めに帰宅したことがあった、
父親が目にしたものは、義母とその母親とぼくと三人が、おもちゃの部品を組み立てる内職をちゃぶ台の上でしている光景だった、
それが原因で義母と父親との大喧嘩が始まった、

父親は、ぼくが家で様々な用事を言いつけられ、それが終われば内職を、日曜日は朝からそれを手伝っていることを知らなかったのだ、

子どもをこんなに働かせるとは、
労働基準法違反だっ、
お前が産んだ子どもじゃないからそうやって女中かわりにこきつかっているのか、
父親の怒鳴り声がガラス戸一枚を伝わって近所中に響き渡り、その声に驚いた近所の大人たちや子どもたち、その多くは同じ小学校に通うこどもたちだったのだが、ぼくの家を取り巻いた、
その幾つもの好奇な視線がぼくには堪えられなかった、、

小学校4年生、ぼくが10歳の時に、待望の妹が産まれた、
太陽のように輝く子になれと期待されて陽子と名付けられた妹の面倒をぼくがみることになった、
義母にとって初めての妊娠出産だったせいなのか、陽子が産まれる前つわりがひどく、食事もとれない日も多く、たまに摂れば何度も吐いた、
義母の枕元に置かれた鉄製のボール、そこに嘔吐物が入っているのだが、それをトイレに捨てる役割がぼくに与えられた、
胃液のような唾液まじりの血を薄めたような茶色い液体を、息を止めて持ち上げトイレまで運び捨てるのだが、途中で止めた息が続かなくなり大きく吸ってしまった、
液の臭みが鼻を襲い肺の奥まで侵入してきたかのようで、ぼくも吐いてしまった、

人が弱って寝ているのに人真似をして吐きやがった、バカにしてやがる、
下町育ちの口の荒い義母はそう言ってぼくを殴った、、
殴られながら、涙もでなかった、
あ~あ、早く大人になればなあ、大人になればこの家を出て自分で稼いで自分で食えるんだ、
びしびしと叩かれながら、そんなことを考えていた、

妹が産まれ5ヶ月か半年経った頃、義母の母乳が止まった、
母乳が出るようにと、義母は餅を食するようになった、なぜか、餅を食べると母乳の出が良くなると思われた時代だったのだ、
ぼくがその餅を買いに行くのだが、結局、お裾分けの一つもなかった、
義母と義母の母親とふたり、寝ている妹の顔を見ながら、母乳の出を案じるように餅を食べていた、
ぼくも欲しいと言えば負けたような気になる、そう思って我慢した、、

正月だからといって餅も、普通の朝飯さえも食えなかった幼年少年時代、、、
小学校の朝礼で貧血で倒れたぼく、
学校に呼ばれた義母は保険医から、もう少し栄養のあるものをこの子に、と申し訳なさそうに言われたのだとか、その話を担任の浅川先生から後から聞いた、

あんたのおかげで恥かいたわよ、寝ているぼくを上から見下ろしながら義母が憎らしいものを見る表情を浮かべ言った、、

この母と心が通うまでにはその後、8年かかった






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