2012年12月6日木曜日

12月


訃報あり三通もあり十二月

今月に入り三通の訃報が届いた、
連れ合いの父が亡くなりました、父が亡くなりました、新年のご挨拶は遠慮いたします、
というものだった、
 あれだけの猛暑のあと、涼しさを飛び越えていきなり寒さが厳しくなった感のある今年の冬、
老齢、高齢の方には乗り切ることが難しかったのだろうか、、

従姉妹の父は今年九十三歳だったとか、 通称「立川のおじさん」と称ばれたこのおじさんとは、小学生の頃から何度も会っていたし、従姉妹と同学年ということもあり、小学校の夏休み中、お互いの家に泊まりに行ったりしたこともあった、

同じ歳の従姉妹には二歳年下の妹がいて、夜遅くいつまでも仲良く話している従姉妹とぼくの間を妬み「お姉ちゃんばっかり・・・」と、泣かれたことも今では懐かしい思い出になっている、

立川といっても、実際は少しその先の昭島市だったということも後で知った、
五十年前の昭島は、近くに米軍基地があったせいで白人や黒人の兵隊たちが歩いているのをよく見かける町だった、
日本人が住む団地に設置してあった小さな公園のブランコで、近所の米軍兵舎からやって来たのだろうか、白人の女の子が遊んでいることもあった、
 地元では見かけたことのない黒人たち、金髪をなびかせてブランコを漕ぐ白人の少女たち、立川をはじめその周辺の町々は、ぼくにとって初めての異人種との接触といってもいいものだった、

立川のおじさんが訪れると必ず注文するものがあった、
それは、冬瓜のあんかけ汁、
薄く切った冬瓜を鰹節の出汁でとった薄塩味のあんかけ汁に仕立て、香り付けで醤油を少し垂らしたもので、おじさんは何杯も何杯もお代わりをして飽きるということがなかった、

それを思いだし、 我が家でもそれを作ってもらうことがある、
家人は冬瓜のあんかけ汁を作ったことも、だから食べたこともないというので 、味と作り方を口頭で説明しなんとなく似たようなものを作ってもらうのだが、出来たそれは似たようなものであって、あの時食べた冬瓜の汁とは少し違っているようだ、
 似てはいるものの、そこには思い出という味付けが不足している、

あの時、昭和の中期、ぼくが小学生の時に食べた冬瓜のあんかけ汁は、大人になってしまった今のぼくにとって二度と味わえない、もう決して口にはできない味なのだろう



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