2012年12月31日月曜日

大晦日

今日は大晦日、今年も最後の一日となった、

昨日今日と買い物ばかり、食器を買ったり花を買ったりカーペットを買ったり、食材を買ったりと
ずいぶんお金が出ていった、
3万の上、出て行った、

1月2日に将棋の会の新年会を我が家で行うので、それ用にとスーパー西友でタラバの足詰め合わせ1890円也を2パック買ったのだが、水っぽくてダメだなあ
とても客に出せない、
カニはそんなに好きでもないのに、自分たちで食べてしまうことにした、、

今年良いことがあった人も、そうでもなかった人も、サイテーだった人も世の中にはいろいろ居るはず、
月並みだけれども、誰にでも必ず朝は来るし、いやでも年は変わる、年が変わればそれなりに気分も変わったような気になるさ、
それを足がかりにして、良いことが無かった人はがんばれ、

ぼくを応援してくれたすべての人々に大きな幸せを、
足を引っ張った人全員に痛烈な罰を与えてください、神様(笑)

では、来年もよろしくお願いします。


今年最後のしめくくりの歌

アニマルズの中でも好きな曲の中の一曲
めげているときに聴くと力が湧いてくる曲なのだ、

Inside looking out  この題名が当時気に入ったのだ

ヴォーカルのエリック・バードンの歌声を聞いた聴衆の一人が”まるでアニマルのようだ”と言ったことが、バンド名の由来になったとかいう伝説もあるバンド The Animals



2012年12月28日金曜日

忘年会

今日は、仕事納め
で、午後4時から忘年会、

通常、忘年会にはこの字を当てるのだが、望年会と書くのを見たこともある、
忘年会には、年忘れという意味があるのだろう、
その年にはきっと良いことよりも悪しきことが多く、そんな年をさっさと忘れて新しい年を迎えよう、という意味があったのだろう、

望年会には、悪しき年を忘れるのでなく、来たるべき新年を新たな気持ちで望む、という気持ちが込められているような意味があるのだろう、

一時期、ぼくも、望年会という字を当てていた時がある
今、あらためてこの字を眺めると、この望年会を初めて使った、発見した人の得意げな顔が見て取れる、
おれの忘年会は、望年会なんだぜ、ちょっと他のとは違うだろう、小鼻拡げてぴくぴく、、みたいなさ、

その得意げな様子に思い当たるようになって、あまり使わなくなった、

町場のスナックで得意げにマイクを器用にもてあそぶ(マイクを口元から離したり近づけたりして音量を調節しコブシ?をぐるんぐるん回す)ド演歌オヤジの、臭みに似たものを感じ取ったからだ、

普通でいいよね、普通が一番さ

なので、今日は忘年会

まあ、行ってくる 千葉県我孫子市まで(笑)

2012年12月24日月曜日

ライブ




ひさびさのライブ、友だちが経営しているお店でのワンナイトライブ、
いやあ、楽しかった、

ビートルズナンバーだけで18曲、で、前半ステージが終わり、その後はOldiesオールディーズ(英語のカタカナ表記ってほんとヤになる)中心にUnchained Melodyアンチェインドメロディ、ストップザミュージック、朝日のあたる家、と、、

平均年齢61歳のおやじバンドならではの曲とノリ、合間のMCも慣れているのか楽しくて、7時半から10時までの二時間半、楽しくすごせました、

バンドおっかけの女性たちも4人ほど来店し、注文の飲み物や食べ物を運んだり、踊ったり踊ったり踊ったり、、、
DEVILZデビルズ 悪魔たちというバンドだったけど、天使に見えた 笑
普段は4,5人しか入らない店に35人も来店し、みんなノリノリで楽しんでいました、

音楽は聴くものでなく身体に浴びるものだ、というのがぼくの持論、
イヤフォンで聴く音楽と違って久しぶりの身体に浴びる音楽、ジャンルや演奏の上手下手に関係なくステキな音楽でした、
音楽って腕じゃない、ハートでしょ、

はじめ遠慮がちに遠巻きにしていた観客も、デビルズガールがノリノリで踊りまくるので最後は狭い舞台の真ん中まで出て踊り出し、釣られてぼくもうちのも踊りました、、
新宿や渋谷、六本木の踊れる店で昔、よく大汗をかきながら踊っていたので、懐かしかったさ、
リズムに乗ることは大事だけれど、あとは勝手だもね、
ステップもフォームも関係ない、好きに身体を動かして音を浴びればいいのさ、

もっとも、昔のそういう店って、酒が飲み放題か極端に安かったんだよね、女性客は無料だったし、それが一番の理由だったかも 苦笑
しかも渋谷の店なんかは出るときに次回来店時ボトル無料券を必ずくれたりしてね、、


あ、ちなみに写真もぼくが撮りました、
アマチュアの悲しさで、一番右のベースギターが先端まできちんと撮れていない、
ノリで撮ってはいても、基本を外したらダメだなあ、、

んーーー、、、、







2012年12月22日土曜日

眠れない

今日は、昨日はというべきなのか、眠れない夜だった、
前にも書いたことがあるような気がしているのだが、たまに目が冴えて眠れない夜がある、

そんなときは、枕元にうずたかく積んである本をひっくり返しながら、スタンドを目の近くに寄せ、なるべく肩の凝らないバカバカしくものんきな本を探して読むようにしている、

2時頃までは布団の中でそうやってぐずぐずぐだぐだしているのだが、それも過ぎるとこうやって起き出してしまう、今、時間は4時20分、

jo太郎は家人の腕の中で安眠中なので放っておいて、ひとり孤独に別室で寝ているがっちゃんを相手にする、
ぼくの非常食というべき、安価な魚肉ソーセージを棚から取り出し、一本丸ごと食っていると、がつもやって来て欲しそうな顔をするので、口の中でぐちゃぐちゃに噛んでほんの少し分けてあげる、
そうすると、彼も落ち着いて元の寝床にもどっていく、

さーて、何を書くか・・・、俳句だな

甘酒をいただき温む初詣 甘酒を飲んで暖とる初詣 甘酒を呑んで暖とる初詣 酒なので飲むより呑むか、酌むということばもあったな、、

(近くの熊野神社では、初詣の参拝客に甘酒を無料でふるまう、無料だからというわけでもないのだろうが、美味しくない、酒粕に大量の砂糖、、甘すぎて口が痺れそう、でも断ると角が立ちそうなので、少しだけいただくことにしている、そんな状況を思い浮かべ作った句)

明け年の季題を探し初詣 
明け年の季題探して初詣 
明け年の季題はこれだ初詣
明け年の季題求めて初詣


甘茶は季語だけれど甘酒は季語ではなかった、調べたから確かだ、
新年が季語で、初詣とかぶるから、明け年という語をもってきた、
推敲の余地は多いにある俳句だなあ、、


今日は、夕方から友達の店でバンドのライブがある、ワンドリンク付きで3000円、
ドラム、キーボード、サイドギター、リードギターの4人編成、平均年齢61歳のおじさんバンドらしい、
オールディズ中心のポップスバンドで、ビートルズからCCR、アニマルズまで、なんでもこなすらしい、
来てよといわれたので、あいよと応えておいた、
7時半開演で10時頃まで、、
30人も入れば満杯になる小体な店なので、演奏中にタバコをすっていいものかどうか、そっちの心配もある、
昔、六本木のビートルズコピーバンドの店に行ったら、たばこは禁止だといわれて、えっと思ったことがあった、
ビートルズって、後期はともかく、前期のデビュー直後は、酒とたばこの喧噪の中で、わいわいどんちゃんやっていたイメージがあったから、
たしか、ドイツはハンブルグのクラブでぶかぶか演奏していたはず、
いつから、そんなお上品になってしまったの、お嬢ちゃんお坊ちゃんに聴かせる音楽になってしまったの、そんな感想をもった、

まあしかし、ヴォーカルの人に悪いから、たばこは禁止だといわれたら素直に従うつもりではいるけどさ、、、


2012年12月18日火曜日

次郎物語






熊本の中学の担任だった草野先生から、以前在籍していた東京の中学に再転校するときに、クラスでお前に何か贈りたいそうだ何がいい、と言われた、

ぼくが希望したのは、当時新潮文庫から出ていた「次郎物語」全5部だった、

次郎物語の第1部は自分で買い読んでいたのだが、幼年少年時代の次郎が上級に進級し、さらに進学し青年になっていく、その行く末も見てみたいと思っていた、
先生からの申し出を受け止め有り難く頂戴した、

東京へ向かう汽車の中で読み始め、あっという間に読了してしまった「次郎物語」、
当時、熊本から東京へは霧島という準急の汽車が走り、乗車賃は格段に安いものの、片道29時間かかった(祖母の家から東京の家まで、玄関から玄関まで)記憶がある、
なので大概の本は車中にて読めてしまう、、

ここでいつか書いたように、アップルコンピューターから出ている携帯型端末機iPodTouchを最近購入した、
家のWi-Fi機能を使えばネットに接続できるし、ネットにつながるのだから世界は拡がっていく、

自宅のPCとつなぎ、動画や画像、映画、文章を入れ、さまざまなアプリケーションを導入して楽しんでいる、
bReaderというアプリは、ネット上の「青空文庫」から版権の切れた小説をダウンロードし持ち歩き読むことに特化したソフト、

夏目漱石芥川龍之介森鴎外などなどの明治の文豪たちから、石川啄木樋口一葉などなど、出版されて50年以上経ち版権を失った作品が無料で展示され無料でダウンロードすることができる、

作家別索引の「し」のところに、下村湖人があった、
「次郎物語」を全巻ダウンロードすることができた、

今、ぼくのiPodTouchにはさまざまな作家のさまざまな作品が収納されている、
バスを待つ間、料理を注文し出てくるまでの間、地下鉄の中、空いている時間にそれらを取り出し読むことができる、
無駄な時間などありはしない、それが嬉しい、、

次郎物語の主役はもちろん次郎なのだが、次郎の父、母、乳母、兄、弟、父方の祖父祖母、母方の祖父祖母など、次郎をとりまくたくさんの人物が登場する、

初めて読んだときに、ぼくと次郎と、これほど似ている人物がいるのかと不思議に思えたくらいに次郎への感情移入が激しかった、
良い小説というのはそれを読んだ読者すべてに、これは私の話だ、これって俺のこと?、と思わせるのだとか、その伝でいけば、次郎物語も小説として十分成功している、

母から引き離されて乳母の元で育てられた次郎、実家に帰っても、母や兄弟、祖母ともうまく折り合えない次郎、その次郎を暖かく見守る父親、

教育小説の様相を帯びながら、現に、後巻になればなるほど教育的訓導的匂いが漂ってくるのだが、第1部に限っていえば、説教じみてはいない、

少年だから純粋であるとか、清純な精神の持ち主であるだとかの、画一的な薄っぺらい表面的な取り上げ方にアンチテーゼを投げかけるこの「物語」は、出版当時、こんな子どもが現にいるのかと拒絶する意見の方が多かったのだとか、次郎は変質者だね、とする意見まであったとか、、

凡百の少年少女小説と一線も二線も劃すこの小説を、読まれていない方々にお勧めします、、

今回読んで気がついたことも多かった、

ネタバレになるので、書くまいとも思ったのだが、中学時代に読んで記憶していた1シーンの一つ、
臨終間際の母がいう「子どもって、ただ可愛がればいいのね」の台詞は、夫との間で交わされた言葉かと思っていたら、次郎の乳母との間で交わされた言葉だった、

次郎を連れ戻す母と奪われた乳母との間にあった一時のぎくしゃくとした感情が、一方の死を目前に氷解していく、その中での会話だった、

そうだったのか、

しかし、その会話が夫との間でなされたものか乳母との間でなされたものか、そのどちらにしても大きな違いはもたない、作品の質を落としはしない


※青空文庫 
ネットに接続し”青空文庫”で、検索してみてください、作家別索引の”し”の欄に、下村湖人氏があります、その中の次郎物語、、書店に出向かなくてもその場で読めます、ダウンロードすれば、ネットの接続を切ったあとでも、パソコンで読むことができます、
同様の方法で、さまざまな良書を読むことが可能です、、

2012年12月15日土曜日

餅にまつわるあれこれ






先年購入したホームベーカリー、わかりやすく言えばパン焼き器、最近、パンを焼くこともあまりなくなり、使用する機会は餅を搗くことばかりが多い、

餅米を洗い10分程度水に浸し、ざるに上げて水を切ったら、所定の水の量(餅米3合に対し260cc)を加えて器械に入れ、スタートボタンを押すだけ、
蒸して搗いて(こねて、だけど)がすべて自動で一時間弱で餅ができあがる、

搗き上がったばかりの餅を辛み大根のおろしにまぶして食べたり、少し置いてからフライパンで油を敷かないで焼き、七味醤油で味を付け海苔を巻いて食べる通称磯辺巻き風も美味しい、

餅が好きで真夏でも朝から雑煮でかまわない、
食が太いというのか、胃腸が丈夫だというのか、朝から焼き肉OKなので、餅なんかなんでもない、

以前、JR新橋駅の近くにお粥専門店があり、新橋からバスで江東区豊洲まで通っていた頃なので、バスの待ち時間を利用して、その店を利用したことがあった、
中国粥というのだろうか、大鍋にたっぷり沸かせた水気の多い粥に、トッピングでお好みの具を載せるだけのシンプルな品だったが、目覚めたばかりの躯に、口を通して食道を伝わって落ちていくそれはいかにも優しい食べ物のような気がして利用頻度が多かった、、
今思い出せば前の晩に酒を飲み過ぎたときなどに、立ち寄ったことが多かったようだ、

粥は、漱石のような胃弱者には格好の食べ物なのかもしれない、
ぼくのように、焼き肉も粥も餅も同じ、朝から差別なく区別なく当たり前に食する人種にとって、粥だから餅だからと格別に思いを寄せることは、はっきり言って無い、、
焼き肉も旨いし餅ももちろん美味いし、粥だって美味しい、
丈夫な胃腸でよかった、
こういう場合は、丈夫に生んでくれた親に感謝、と書くべきなのだろうか、、

子どもの頃、小学校に上がる前から上がって三年生になったばかりの頃まで、父親の仕事が定まらず職を何度も変わり引っ越しばかりをしていた、
家賃を溜めて夜逃げをしたこともあったのだと思う、家に帰ったら布団も食卓も電球さえもなくて真っ暗ながらんとした中に親だけがぽつんと座っていたこともあった、
小学校だけで6回転校した、

ある年の正月、父親が「今年の正月は寝正月だ」と言う、
寝正月の意味が精確にはわからず、なんとなく寝ているのかなあと想像していたら、一月一日の朝、そのとき一緒に居た父親の二度目の妻と父親は布団の中で二人で寝ているばかりで起きても来なかった、
朝ご飯もない年の初め、元旦の日、寂しかった泣きたかったというのはなくて、とにかくお腹が減って困った記憶しか残っていない、
その年は、雪が降った正月で、外では同じ年頃の子どもがその家の家族らしき大人たちと凧揚げをしていた、綺麗に着物を着せてもらっていた少女の頭に赤いリボンが載っていた、
ぼくは、朝飯も食べていなくてお腹が減っていることがその人たちにばれないように、少女が突いている羽根や、曇天の空に悠々と揚がっている凧を眺めていたように覚えている、、

正月だからご馳走が出たとか、餅が食えたとかの記憶をたどってみると、幼年時代少年時代にはほとんど無いことに気がついた、
東京での生活、そこが破綻すると送られた熊本の祖母の家、東京と熊本を行ったり来たりしていた幼年少年時代だった、
熊本で食えないことは一度もなかった、
祖母は倹約家で日頃の生活も食事もつましかったのだが、野菜や米は豊富にあり、好きなだけ食うことができた、
ほとんどの野菜を自家栽培し、鶏を飼い豚も販売用に飼っていた、
子豚を買って大きく育て、売りに出すのだ、
その豚が売れた時などに、人吉市に出向き、肉を買ったり魚を買ったりしたのだと思う、
饅頭も作ってくれたし、麦芽糖を利用して飴のようなものも祖母が作った、

小遣いをもらった記憶はないのだが、だからといって食に飢えたことはなかった、、
学校に行けば図書館があったし、たまに父親から送られてくるぼくの食費代を祖母から少し分けてもらってバスで人吉まで行き、学校の勉強で使う参考書を買うことが、ぼくの現金利用の主な使い途、存分に食えて好きなだけ勉強ができたのだから、熊本での生活はぼくにとって今思い出しても一番幸せな時代だった、
幸い学校での成績も良かったので、祖母にとっても自慢の孫だったのだろう、
生き仏のように大事に育ててもらった、

東京に戻ると、熊本とは違い気を遣う毎日が続いた、
そのときには、父親の三度目の妻がぼくを迎えた、
その妻と同居していた妻の母親、義理の祖母は、ぼくのことがあまり好きではなかったようだ、

ぼくにとっての三度目の母親となった女性は、大柄な女性で身長が172cmもあった、
父親は162cmしかなく、つまり昔風にいえば蚤の夫婦だった、
そのことを義母はいつも気にしていたようだ、
義母は、ぼくの父親との結婚が三度目、今まで子どもを産んだことがなく、そのことをあからさまでなく陰で義母の大柄な体格にかこつけて卑猥に噂する周囲の声が義母の耳にも届き、悔しくて泣いたこともあったのだとか、

大柄な女だから大味で子どもも産まれないのだろう、
そんな周りの陰口を蹴飛ばしたくて、子どもさえ産まれればどんな男でも良かった、こぶ付きでも良かったのよ、こぶというのはぼくのことなのだが、そんなことを言われたこともあった、
父親には実際にぼくという子どもがいたので、その意味で種はある、たしかに生殖能力がある、そのことが義母が父親を三度目の夫に迎えた大きな利用だったことは否定できない、

義母と義母の母にとって、ぼくが勉強することが好ましいことではなかった、
勉強してもお金が入ってくるわけではないし、むしろ、家の手伝い、風呂を沸かしたり七輪で炭に火をつけたり、夕方の食事の買い物をし、義母が読む芸能週刊誌を買いにいき、金魚の水槽を洗い、トイレで使う新聞紙を切ったり、内職を手伝ったり、そうすることが良い子の条件だったようだ、

学校の勉強に遅れないか、気が気でないぼくを尻目に、終わっても終わっても後から用事を言いつけられた、
義母と義母の母親の家に転がり込んだ形の父親とぼくは、父親は朝仕事に出かけ夜まで帰って来ないのでまだ気が晴れるものの、ぼくは学校から帰ってくれば、必ず手伝いが待っていてずいぶんと働いた、
この家の人に食べさせてもらっているという意識から、文句を言うどころではなかった、

ある日曜日、仕事に出かけたはずの父親が早めに帰宅したことがあった、
父親が目にしたものは、義母とその母親とぼくと三人が、おもちゃの部品を組み立てる内職をちゃぶ台の上でしている光景だった、
それが原因で義母と父親との大喧嘩が始まった、

父親は、ぼくが家で様々な用事を言いつけられ、それが終われば内職を、日曜日は朝からそれを手伝っていることを知らなかったのだ、

子どもをこんなに働かせるとは、
労働基準法違反だっ、
お前が産んだ子どもじゃないからそうやって女中かわりにこきつかっているのか、
父親の怒鳴り声がガラス戸一枚を伝わって近所中に響き渡り、その声に驚いた近所の大人たちや子どもたち、その多くは同じ小学校に通うこどもたちだったのだが、ぼくの家を取り巻いた、
その幾つもの好奇な視線がぼくには堪えられなかった、、

小学校4年生、ぼくが10歳の時に、待望の妹が産まれた、
太陽のように輝く子になれと期待されて陽子と名付けられた妹の面倒をぼくがみることになった、
義母にとって初めての妊娠出産だったせいなのか、陽子が産まれる前つわりがひどく、食事もとれない日も多く、たまに摂れば何度も吐いた、
義母の枕元に置かれた鉄製のボール、そこに嘔吐物が入っているのだが、それをトイレに捨てる役割がぼくに与えられた、
胃液のような唾液まじりの血を薄めたような茶色い液体を、息を止めて持ち上げトイレまで運び捨てるのだが、途中で止めた息が続かなくなり大きく吸ってしまった、
液の臭みが鼻を襲い肺の奥まで侵入してきたかのようで、ぼくも吐いてしまった、

人が弱って寝ているのに人真似をして吐きやがった、バカにしてやがる、
下町育ちの口の荒い義母はそう言ってぼくを殴った、、
殴られながら、涙もでなかった、
あ~あ、早く大人になればなあ、大人になればこの家を出て自分で稼いで自分で食えるんだ、
びしびしと叩かれながら、そんなことを考えていた、

妹が産まれ5ヶ月か半年経った頃、義母の母乳が止まった、
母乳が出るようにと、義母は餅を食するようになった、なぜか、餅を食べると母乳の出が良くなると思われた時代だったのだ、
ぼくがその餅を買いに行くのだが、結局、お裾分けの一つもなかった、
義母と義母の母親とふたり、寝ている妹の顔を見ながら、母乳の出を案じるように餅を食べていた、
ぼくも欲しいと言えば負けたような気になる、そう思って我慢した、、

正月だからといって餅も、普通の朝飯さえも食えなかった幼年少年時代、、、
小学校の朝礼で貧血で倒れたぼく、
学校に呼ばれた義母は保険医から、もう少し栄養のあるものをこの子に、と申し訳なさそうに言われたのだとか、その話を担任の浅川先生から後から聞いた、

あんたのおかげで恥かいたわよ、寝ているぼくを上から見下ろしながら義母が憎らしいものを見る表情を浮かべ言った、、

この母と心が通うまでにはその後、8年かかった






2012年12月9日日曜日

今日は句会

曇天や大鳥の舞ふ枯蓮田  曇天下大鳥舞ひし枯蓮田

鮟鱇は腹に大海治めけり 鮟鱇は腹に大海治めける

訃報あり三通来たり十二月

十二月それにつけても党の多さよ

年惜しむ友ら三名逝きましし



以上の句をもって参加しようと思っている、
二つあるのは、どちらか迷っているから・・、

今年最後の句会、終わったあとは恒例の忘年会をかねての飲み会となるだろう、

パソコンを変えた
今までのXPからWindows7に、ソーテックからDELLに変えたのだ、
前のマシンはもう10年も使ってきた、子どもがその会社に勤めていたのでその縁で購入したもの、
さすがに最近では古くなってしまい、あちこちガタが来ていた、
昨日は届いた新品のパソコンにソフトのインストールをしていた、

スピードが早くなった、ネットも軽快に見ることができる、プリンターも新しくなった、
なんとなく嬉しい、

単純なのだ、、、


2012年12月6日木曜日

12月


訃報あり三通もあり十二月

今月に入り三通の訃報が届いた、
連れ合いの父が亡くなりました、父が亡くなりました、新年のご挨拶は遠慮いたします、
というものだった、
 あれだけの猛暑のあと、涼しさを飛び越えていきなり寒さが厳しくなった感のある今年の冬、
老齢、高齢の方には乗り切ることが難しかったのだろうか、、

従姉妹の父は今年九十三歳だったとか、 通称「立川のおじさん」と称ばれたこのおじさんとは、小学生の頃から何度も会っていたし、従姉妹と同学年ということもあり、小学校の夏休み中、お互いの家に泊まりに行ったりしたこともあった、

同じ歳の従姉妹には二歳年下の妹がいて、夜遅くいつまでも仲良く話している従姉妹とぼくの間を妬み「お姉ちゃんばっかり・・・」と、泣かれたことも今では懐かしい思い出になっている、

立川といっても、実際は少しその先の昭島市だったということも後で知った、
五十年前の昭島は、近くに米軍基地があったせいで白人や黒人の兵隊たちが歩いているのをよく見かける町だった、
日本人が住む団地に設置してあった小さな公園のブランコで、近所の米軍兵舎からやって来たのだろうか、白人の女の子が遊んでいることもあった、
 地元では見かけたことのない黒人たち、金髪をなびかせてブランコを漕ぐ白人の少女たち、立川をはじめその周辺の町々は、ぼくにとって初めての異人種との接触といってもいいものだった、

立川のおじさんが訪れると必ず注文するものがあった、
それは、冬瓜のあんかけ汁、
薄く切った冬瓜を鰹節の出汁でとった薄塩味のあんかけ汁に仕立て、香り付けで醤油を少し垂らしたもので、おじさんは何杯も何杯もお代わりをして飽きるということがなかった、

それを思いだし、 我が家でもそれを作ってもらうことがある、
家人は冬瓜のあんかけ汁を作ったことも、だから食べたこともないというので 、味と作り方を口頭で説明しなんとなく似たようなものを作ってもらうのだが、出来たそれは似たようなものであって、あの時食べた冬瓜の汁とは少し違っているようだ、
 似てはいるものの、そこには思い出という味付けが不足している、

あの時、昭和の中期、ぼくが小学生の時に食べた冬瓜のあんかけ汁は、大人になってしまった今のぼくにとって二度と味わえない、もう決して口にはできない味なのだろう



2012年12月1日土曜日

今日は将棋

俳句の会の先輩にあたる方から、妻が旅行で留守なので我が家で将棋でもどうですか、と誘われた、
この先輩は、ぼくの周りには珍しくお金持ちの方、
一億円を超える(たぶん?)マンションに住み、現在は年金暮らしとはいえ悠々自適の生活、
息子さんも娘さんも北海道で開業医を営んでいるのだとか、子どもの心配もなく、朝昼の散歩と夕方からの晩酌を愉しみにしている方、

奥さんは海外旅行が大好きとかで、この前はモロッコへ行き、今回はカンボジアのアンコールワットを訪ねる旅なのだとか、羨ましいほどの恵まれた生活、

株をはじめ動産をすべて集めたら一億を越えたときもあったらしい、
「やっと一億を越えたね」と、奥さんと会話したこともあったとは本人の弁、
それがいつぞやのリーマンショックで7割を失い、大損をしてしまったと嘆いていた、
7割失ってもまだ何千万円も残っている、、、

同じ句会に所属し、いつもお金で困っているぼくの友人は、7割なくしてもまだ何千万もあるもなあ、羨ましすぎてイヤになるよ、と嘆息、、

明日、ぼくと仲の良い友だち数人で鮟鱇鍋を食べに茨城まで出かける、
鮟鱇だと言ったら、アンコールワットと聞き間違えて、あー妻も同じ場所にでかけるよだって、
いえいえ、こちらは鮟鱇で、あなたのところはアンコールワットでしょうと思わず苦笑い、
旅行の桁が違う、、

茨城は、あの原発事故以来、あちこちに放射性物質の濃度が高いいわゆるホットスポットがある所、高濃度に汚染された排水を東電が海に流したことにより、海底から揚がる鮟鱇にも汚染があるかもよと別の友人が、、
そういえば、しばらくは蟹や海老は食わないとぼくの周囲で話題になった、
津波で流された多くの犠牲者たち、海でどうなったのか想像してみろよ、というのがその言い分、
聞いていて気持ち悪くなった・・・、、

昔、島で暮らしていた数年の間に海で入水自殺を遂げた女性が一人いた、
その時にも、その女性の家族は、しばらく海のものを口にしなかった、
今回、海老や蟹を食わないとする心境は当時の家族と同じなのだろうか、
その心向きが理解できるような気もするし、それって結局は悪しき風評となって、立ち直り、復興の足がかりをなんとか掴もうと必死に生きる努力をしている被害地域の足を引っ張ることになってはいないか、

大きなことはできないけれど、援助らしい援助も義援金の他はしてこなかったけれど、現地に足を向けできるだけ買い物をし名物を食べ、許せる範囲でお金を落としてこようと思っている、

あの時以来、お客が減ってと嘆く旅館の女将や商店の女主人のため息をテレビで見るたびにそう思う、、、

さーて、鮟鱇を食って酒を呑んでくるぞっと。。