井上靖氏の作品「氷壁」中で、こう言って、登山家でありおのれの部下でもあった主人公の男性を激しくなじった上司の常磐、
作品を離れ、この言葉がことばだけで流れだしたとき、どのように世に迎えられるのだろう、
これからこの作品を読まれる方々のために、多くには触れられないもどかしさを覚えながら今これを書いている、
決して他人には投げつけられるべき言葉ではないはずである「ばかめが」、
もしも上司から他人から友人と互いに認め合った人物から、こう言われて精神に波風の一つも起たない人がいるとしたら、相当の大物か精神の一部に欠落したものがあるのだと、ぼくには思えてしまう、
ばかめが、、
耳障りの良い言葉だけが横行し、踏み込んで人とのふれ合いを求めようとは決してしない時代には、あってはならない言葉の一つなのかもしれない、
「そうです。本当に、山を生命がけで・・・・・・」
常磐を、急に激情が襲ってきた。
常磐は言葉を続けられなかった。獣でも低く吠えるような低い嗚咽が、常磐の口からもれ出した。
周囲の人たちがいっせいに常磐の方を見た。
周囲の目などまったく目に入らない、吠えるような嗚咽、
それだからこその”ばかめが”なのか、、
体裁の良い言葉だけが、人との関係をつなぎ止めると誤解されたまま、人は柔らかな心の襞を、作り笑顔の固い殻で包み込みけっしてその殻を解こうとはしない、
傷つくことを恐れるあまり、うわべだけの人間関係に終始する、
傷つくほどの清冽な精神も魂さえもありはしないのに、防御だけはタイトル保持者なのだ、
なじってなじられて壊れる関係ならば、初めからそんな関係などクソ食らえなのだ、
千人の差し障りのない通り文句よりも、一人の本音の叱咤が好きだ、
顔を撫でただけの生ぬるい激励よりも、激しく迫る叱咤にぼくは意味を見いだす、
本音で生きていた時代、肌と肌が血が流れるほどぶつかり合った時代、そんな時代、、
出会いから長い時を経て、ようやっとお互いの存在の意味を知り結婚を約束しあった男女が軽くくちづけを交わすだけで、その夜は別れる、
昭和30年代、今から50年ほど前の昭和の御代にはそのような男女関係があった、のだとか、
残念ながらなのか、出血の痛みを知らないだけ幸せなのか、ぼくはその時代まだこどもだった、
「しろばんば」しか読んだことがなかったぼくにとって「氷壁」は、これから追求する作家の一人である井上靖氏と新しい出会いの場を作ってくれた作品になった、
お勧めの一冊です!
0 件のコメント:
コメントを投稿