2月23日午前5時5分、父親が他界した、
同日午後3時、病院から斎場へ移動させ、昨日は火葬だった、
いくつかの確執が父親とはあり、義絶状態のまま20数年・・、
久しぶりに会った父は、棺の中に横たわり、ひどく小さくなったようだった、
弔電、献花、香典などを一切断り、僧侶による読経までも拒否したそれは、普通の葬儀からしたら一風変わったものに見えただろう、
いわゆる戒名もなく本名のまま死を遂げた、
葬儀といわず火葬と書いたのは、内容がまさしくそれしかなかったからだ、
身長162cmの父にしては、想像していた以上の骨が残り、骨壺に収まりきれるだろうかと危惧したのだが、杞憂におわった、
うまく収まるものだ、、
昭和二年一月六日生まれの父は、十八の歳で終戦を迎え、それまでの軍国主義から戦後民主主義への変換を身をもって体験した、
終戦間近なある日、昭和天皇の弟が大本営にて軍人たちを集め「徹底抗戦、死をもって国を守る」と演説した、
その本人が、戦後すぐに日本赤十字社総裁に就任するのを目撃し、心の中で何かが崩れたようだ、
それまでの軍国少年から一転、真逆の共産主義思想の支持者となった、
共産主義思想を受け入れ支持したとはいえ、その中身は、読売新聞を購読したいという妻を殴り、美空ひばりコンサートを観たいという妻を罵り殴り、長女のお宮参りを計画したからと義母に手を上げるという、真の共産主義思想からはおそろしく離れた愚かしいものだった、
歌はロシア民謡、革命歌、購読新聞はアカハタ、平素は作業服ばかり着用し、葬式にもそのままで出かけてかまわない人だった、
作業服は労働者の正装、それが父親の口癖だった、
その父親も、87歳の年齢をもって他界した、
これでまた一つ終わった、
なにやら、ほっとした
花冷えや思ふことあり父は死に
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