2013年6月29日土曜日

どうしてこうなったんだろう




40歳になった時には、ノーベル文学賞の受賞者として世界的な名声を博しているはずだった、
なっていなかったので、40歳の誕生日その日に愕然としたことを覚えている、

それ以降、文学の才能はないと気づき、平和活動なるものに精を出して、ノーベル平和賞をいただこうとした、
それなのに、別の精を出してばかりで、平和活動に熱心に取り組むこともなく、たまに国境の無い医師団とかに寄付をしただけで、この歳になってもいまだにノーベル賞には縁が無い、

3度の死にそうな交通事故、2度の死にそうな水難事故、何度も死ぬ目に遭いながら、こうして生き永らえている、

どうして今のこの位置に自分が居るのだろう、なんでこういう人生をおくっているのだろう、
考えるとわからなくなる、、

平穏な人生ではなかったと思うのだが、それは誰しも同じこと、
自分だけ特別な、他人とは違った波乱ある人生を送ってきたはずはないじゃないか、
みなそれぞれ、大なり小なりいろいろあったのだ、、
(いろいろあった、という書きかたは描こうとする内容を薄める凡庸な記述様式、そのいろいろが具体的に何だったのかを書かないと、ここの意味や意義が半減してしまう、わかってはいるのだけれど・・)

6月5日、通いの病院で番号で呼ばれたことに腹を立て
「ここは刑務所か!」「会計をすっぽかして帰ったものの、腹の虫が治まらない」と、自身のブログに書き込み炎上状態になった、岩手県の一期目県議=小泉光男氏(56)が、同17日には記者会見を開き「不適切な表現で、著しく思慮に欠けていた」と謝罪した、

同25日午前5時ごろ、一戸町平糠の大志田橋の上流約50メートルの川岸で、男性が倒れているのを通行人が発見110番し、小泉光男県議の死亡が確認された、

県議になり自分がエラクなったような勘違いをしたのか、病院での番号読み上げが個人情報漏洩防止のための方策だったことの認識がなかったのか、どちらにしても居丈高に病院関係者を怒鳴り飛ばしたと同じ人物とは思えない、あっけない幕切れとなった、
遺書らしきものがないことから他殺自殺両面からの捜査が実施されているのだろうが、自ら命を絶ったのだとしたら、亡くなった人を責める気は毛頭無いが、小泉氏、弱うぇよー
そんなことで命まで絶たなくてもいいのに・・、

5日にブログ、17日に謝罪、25日に自死、一ヶ月も経たない短い期間の間に、彼の人生は急展開し、最期を迎えてしまった、
なんでこうなってしまったのだろう、いつからこうなったのだろう、なんで・・、そう彼は自問し自責したのか、、

死の直前、どのような想念が彼の脳裏をよぎったのか、もちろんわからないのだが、56歳の県議が選んだ死への旅路は、つい最近までの彼にとって思いもかけない選択肢だったことには間違いないだろう、、


※画像は、地元のモスバーガーの店内に設置してあった植栽、
うまく撮れたかのような気になっている、自画自賛は相変わらずなのだ、、













2013年6月24日月曜日

消せないメール




相変わらず、スマホではなくガラケーといわれる旧来のケイタイを使っている、

特殊な発達を遂げたとされるガラパゴス諸島の生物の生態と、海外とは違って(海外ってどこだよ?)特殊に発達したとされる日本のケイタイの事情が似ているというので、ガラパゴスケータイ 略してガラケーというネーミングはいかがなものかと、センスのかけらもないよね、ずいぶん失礼なものの言い方ではないかと、と日頃から考えていたのだが、どうなんだろう、

”日本の特殊な事情”というのは日本固有の文化であり、日本人ならそこをもっと掘り下げるべきなのに、日本製品でなく海外製品を売りつけたい狙いしかない様々な海外メーカーは、そしてその手先の犬たる評論家たちがこぞって、そんなものは捨てて早くこっちのモノを買いなよ、といわんばかりの攻勢が、スマホなのではと、、
韓国製品のスマホ、ギャラクシーGALAXYが売れている背景というのはそんなものなのではと、邪推している、

で、メールの話

いつの間にか溜まってしまうメールの整理として、送信メールは気がむいたときに全削除するようにしている、
受信メールも、同じ人からのメールを1通だけ残し、あとは削除するようにし、保存箱には一切入れていない、
今使っているケイタイの、DISK容量であるとかメモリー容量を意識して使ったことはないのだが、不必要なものをしまっておくこともないだろうと、そんなことをたまにしている、

メールをくれた人の中には、すでに亡くなってしまわれた方もいて、そのメールをどうするか、
今そのことで悩んでいる、悩んでいるというのは大げさかもしれない、そのメールをみるたびに気になっている、

ぼくが死ねば、ぼくの思い出とともに、そのメールもどうせ消えてしまうに違いはないのだが、生きている間は消してはいけないような気になっている、
恋人でもなく身内でもないひとりの彼女から届いた削除していなかった5通のメール、数えてみたら何故か5通あった、
1通だけ残してあとはみな削除しているはずなのに5通あった、

2012.07.28 RE:おすすめの店
2012.03.07 RE:おはよう♪
2011.03.12 こんにちは
2009.02.05 こんばんわ♫
2009.01.08 こんばんわ

2012.07.28 RE:おすすめの店 を書いたあと一ヶ月も経たない8月16日に彼女は亡くなっている、
享年60歳だった、

彼女の夫が長年幹事をつとめてくれていた中学のクラス会に出席するために、その夫も先年亡くなっていたのだが、ぼくはその8月に熊本に行っていた、
13日には彼女を見舞っていた、
今までメールを書いていた人が20日後には亡くなった、、

人が生きるってなんだろう、
人が死ぬってなんなんだろう、

あと100年もすれば、今年生まれたばかりのぼくの孫さえもきっと死んでいることだろう、それがわかっているのに、頭では理解しているのに、この表現できない感情はなんなんだろう、、、

持っていても意味はない、死んだ人のことをいつまで考えていても仕方はない、まして形見のモノでなく文章、それも軽い挨拶のような文章にいつまでもこだわっていてもしょうがないと思うのだが、センチメンタルな心持ちになっている自分がそこに居て、結局消せないまま今になっている、

共通の友人に昨晩メールし、この気持ちってどうなんだろうと書いたら、消さないで、と返信がきた、
ケイタイを替えたためにすべてのメールが消えてしまい、亡くなった彼女との記録、メールも消えてしまったから、まだそれを持っている貴方が羨ましい、というような内容の返信だった、

まさよさん、あなたからのメールをいつまでも削除できずに今でも持っているぼくが、他の人から羨ましがられるほどステキな位置にいるのでしょうか、
あなたから見て、ぼくは今でも男らしいのでしょうか、、、






2013年6月18日火曜日

句会その後

日曜日、定刻の1時に句会が開かれた、

今回は、特別なお客さんとして、板橋区俳句連盟会長職にある上田桜さんが来場、
彼女は現代俳句協会会員でもあり、自身も句作に励む一方、板橋区内に二カ所、銀座、錦糸町にそれぞれ一カ所、句会を毎月定期的に持ち指導にあたられている、
忙しい日程を割いて出席してくれたのだろう、

で、当日の句の中から、彼女が選んだ優秀句、天地人三句の中に、二句ぼくの作品が入った、

人が 桑の実や子どものころの舌となり
天が 十薬の花の白さに気負ひなし だった

特に、天に選ばれた句については、一句一章(一つの句に一つの事象を詠み込む、二つも三つも詠まない)が気持ちよく、俳句になっている、十薬(どくだみ)は、十の薬ともいわれるほど効能の多い古来より多用されてきた漢方の薬であるけれど、そんなことを鼻にかけずただ白い花がひっそりと咲いている、それが目に浮かぶ光景ですとの講評だった、
天賞として、500円の全国共通図書券をいただいた、
嬉しかった、、

彼女とは何度か板橋区俳句大会で会っている、
大会の表看板でもあり裏方の指導にもあたる忙しい彼女なので、立ち話程度で一言か二言交わすのだが、ぼくの句を前から目にとめていてくれて、光るものがある、良いものをもっていると何度か励まされてきた、

言葉とおりに受け止めるほどお人好しではないので、ありがとうございますとだけ云い、その場を離れるのが常だったのだが、今回もまた褒められ天賞までいただき、少しは俳句になってきたのかと素直に喜ぶことにする、





2013年6月10日月曜日

今月の句会




会場の都合で、通常の第二日曜日開催から今回だけ第三のそれとなった、

兼題は「滴る」
岩の間から滴る水の様子を表し、水車であるとか滝のように滴る水ではないのだとか、
なんとなくわかるのだが、本当にわかっているのかと問われれば自信はない、



十薬の花の白さに気負ひなし

夏空や碓氷峪舞ふ白帽子

落球の少年に汗土ほこり

桑の実や少年時代の舌となり

み仏の座して十薬白き花


縄文の代より滴る女陰岩


で、もっていくのは以上の六句


女陰というのが今回の冒険、
縄文という大きな言葉をもってきて印象を弱めたとはいえ官能とエロスの世界なのだ 笑

句界の先達、金子兜太氏の好む題材で、ホトトギス派にはなじまない、
「ホトトギス派の弱点は、糞小便を描かないこと、花鳥風月に逃げている」と、
公言されておられる兜太先生のこと、90歳を超えると何を言ってもユルサレルのだなあ・・、


歌は、レッチリ 「スノー」
ひさしぶりに、ケーブルテレビでデスノートを見た、DEATH NOTE と書いたほうがそれらしいが、
松山ケンイチさん演じる”L”、それは彼の最高傑作ではないかと、今でも思っている、
映画のエンディング曲が、これ


脳髄が働くときには糖分を必要としている、なので、つねに甘いものを食している彼、
名前を書かれると死ぬという疑いをもち、ひょっとこのお面をかぶって歩く”L"

死に神にも名前があり、レムとDUKE、、

日本にもオリジナル曲を創作する能力があるのだと確信し感激した、CHARAさん歌う「スワローテイルバタフライ」あえてカタカナで・・、それに匹敵するデスノート、
その後の、デトロイトメタルシ・・、よりも、Lの方が彼には合ってたし、気持ちのノリも違っていたんじゃないのかなあ?

えっ、清盛はって?
んーーー・・・、役者を活かすもころすも原作と監督だと、役者の資質はその中でこそ磨かれる、





2013年6月6日木曜日

ググる

検索サイトGoogleで検索することを”ググる”という、
50歳代以下のネット使用者なら、かなり以前から常識になっていると思われる(本当か?)、ググるという名称に表された行為についての話、

図書館で借りたスティーブン・キングの短編集にも、そのことに触れた引用があり、彼の国アメリカでもそういうのかと、その行為を”ググる”というのかと、新しいハッケンをしたような気になった ※「夜がはじまるとき」文春文庫

で、このぼくのサイト、なにやら個人的なことをいろいろと書いているこのサイトのタイトルに、ぼくは

somebody _somewhere

と、名付けたのだが、訳せば、訳すだなんて大げさなことをいわなくても、見ればわかるとおり、
誰か何処かで、という意味の英語、

誰か何処かで、どうした?
といわれると困るのだが、気に入って使っている、使わせてもらっている、

元々は、ネットを始めた頃(ネットサーフィンとかいう単語が流行っていた頃だから20年以上前だろう)に知り合った方の個人的なサイトに、その方がsomebody somewhere という名前を付けていた、

彼は、ある会社でアップルコンピューター専門のプログラマーとして働いていたのだが、自宅でも製作ができると気がついて退職し、個人として、自分で作ったプログラム、ソフトウェアを販売して生活しようとしていたのだ、

どこかで目にした、彼が作ったアップル専用のソフトウエア、それはカレンダータイプのTODO LISTソフトだったのが、を購入したいと思ったぼくが彼に連絡し(ソフトをダウンロードした後、彼にメールし、プロテクト解除キーを教えてもらったあと、それを入力してから使えるようになる、という、当時にしても少し面倒な、でも普通の行為だったのだ、それは)、そんなところから軽いお付き合いが始まるようになった、

その解除キーは、valentine というアルファベット9文字だったので、そこに詩的なものを感じ、作者の感性をみる思いがして、どんな人なのか興味も湧いたのだ、
何回かのメールでのやりとりのあと、彼から教えて貰った彼専用のサイトには、彼のプロフィールも載っていたのだが、趣味として、プログラム作り、詩を作る、ギター演奏などが挙げられていた、

一言でいえば、ロマンチストなのだなあ、
身長176cm、体重52kgという細身の身体に、女性のような細い長い指 (あくまでも想像だけど)、そんな彼を想像し、、、いつしか連絡も途絶えてしまった、

その後、フリーソフトでもかなり良質なソフトが出回るようになり、800円だか1300円だか払って使った彼の”valentine”ソフトを使わなくなってしまったことも、関係が途絶えた一因なのかもしれない、

で、somebody somewhere
ぼくのサイトは、somebodyとsomewhereの間に、アンダーバー _ が入っているsomebody _somewhere

彼と同じにすると申し訳ないと思い、少し変えてみた、ほんの少しだけ変えてみた、

今、somebody_somewhere で、ググると、まっさきに、このサイト、日本のこのぼくのサイトがググられる、(何回か試してみて確認した)、
彼の somebody somewhere は、どうなったのか、気になるのだなあ、、

個人で作った小さなソフトが売れたネットの黎明期、結局は、大手の会社が、その分野にも手を出し足を伸ばして、個人では太刀打ちできないようになっていったのだろうが、会社を辞め自宅でこつこつと、どこか品のある感性が感じられるソフトを作って生活をしようとした彼、今はどうしているのだろう、
結婚したのだろうか、生活はできているのだろうか、、そんなことに思いを巡らす今日なのだ、





2013年6月4日火曜日

ABCDEFGHI




と書きながら、このアルファベットの数はAからIまでいくつあるだろうと数えていた、
見ればわかるとおり9つ、だった、

つまりあのときのクラスの数は9クラスだったのだなあ・・、1学級おおよそ50人、1学年に450人いたんだなあ、、ふーん・・・、

ぼくの子どもの頃には、小学校時代はクラスを1組2組とかで呼び分けていた、
東京と熊本と何回か転校を重ねたことがあったのだが、どちらの地域も小学校は数字で分けていた、
ちなみに、いつの時にも小学校時代はなぜか1組ばかりで、他のクラスに入ったことは記憶にない、

小学校は数字で分けていたクラスが、中学校に入学するとA組とかC組とかの名前を付けられるような時代だった、
アメリカの音楽やTVドラマが盛んに放映されていた時代、授業内容から教育制度までアメリカに影響されていたので、そんなことになったのかもしれない、

高校も(ぼくが入学した都立高校は)、A組からF組までアルファベットに分けられ、担任の教師は一年生の時に教わった先生がそのまま持ち上がり、決してクラスが変わることはなかった、
一年生時のクラスメイトが卒業するまでそのままクラスメイト、というわけだ、
良い担任教師、好いクラスメイトに恵まれ出会えるならば最高の形態なのだが、実際はいろいろあって・・、

1年A組、2年A組、3年A組を併せてA属と称し、体育祭文化祭などの学校行事は、属ごとの対抗戦形式をとっていた、
新入生の1年A組の生徒を、先年度に入学した2年A組のオネエサンやオニイサンが指導、教授するという制度で、(毎年同じ数の生徒が入学してくるならば)なかなか面白い制度だったと思う、

後年お世話になった取引先にも、新入社員を世話するブラザー、シスター制度があり、早い子で3ヶ月、遅い子でも3年で辞めていくという”今の新入社員”引き留め策に効果を発揮しているときいたことがある、、これは余計なことだけど・・、

で、クラスの分け方の話、

ぼくは東京の葛飾区の中学を卒業することになったのだが、そこでは、一年生をF組、二年生をB組、三年生をI組で過ごし卒業すると、それぞれの頭文字を取って、FBIだと喜んでいた・・、
CIAでなくてよかったねと、そんなツッコミは置いておいて、なぜFBIになると嬉しいのか、今はもちろん当時でも明確な理由がわからない、
やはりこれもアメリカナイズされたテレビの影響だったのだろう、
下らないし、しょうもない話なのだが、そんなことに胸をときめかすこともあるのが中学時代という時代だったのだろう、


歌は最近のSCANDAL 
ガールズバンドの王道をますます歩まれているようで慶賀慶賀(こういう使い方ある?)

音楽に関係のないオワライ系MCが進行をつとめるテレビ番組にも時折顔を出すようになり、ファッションとかメイク、髪型にも素人っぽさがだんだんなくなり少し寂しい気もするのだが、武道館ライブでデビューからの最短記録を作ったのだとか(なにそれ(笑)?)、
目立ったガールズバンドがない今、彼女たちにはがんばって欲しい、

ドラム担当のリナさんが、某テレビ番組でのリズムを競うゲームで高得点を出し優勝していた(ほらよくゲーセンにあるでしょ、太鼓を叩くあれさ)、
ドラマーだから(出演でなく叩く方ね)当然といえば当然だけれど、超絶技巧なのだとか、そうでなければ98万点も出ないのだとか、
ゲームそのものに興味がないのでわからないのだが、見ている分には面白かったわ、、