好き嫌いにかかわらず、自然界、特に動物界において白い体色は排除されるべき運命にあると聞いたことがある、
白い狼、白い虎、白い猿、白い馬、などなど、
突然変異的にある日いきなり誕生するその生命は、目立つという理由から、草食動物ならば肉食動物の格好の餌食となりやすく、肉食動物であるならば草食動物から発見され逃げられることも多く、餌にありつけないことから餓死につながる、
他の色とは極端に異なる白色は、目立つがゆえに、集団そのものの存亡をも左右しかねない、
白色個体が成長しその寿命を全うすることは稀で、その多くは幼少時に命を絶つ、
異なるもの、平均値をはるかに超えた存在、種における異分子、それが生きていく途は自然界では険しい、
種は個々の生命の存続よりも種全体の存続を最優先させる、
集団が生き残るのならば、ワズカな生命の犠牲はやむを得ないという現実を、餌となる草を求めてアフリカ大陸を横断するヌーの大群から今日でも学ぶことができる、
天敵である鰐が生息する川を承知で横断するヌーの大群、多いときには数百万頭ともなる大群の中には、鰐によって捕らえられ命を落とす何頭かが必ず発生する、
弱いもの、病弱なもの、足をくじいたもの、体力のない幼いヌーなどなどが、鰐の犠牲となる、
卵で生まれる鰐と違い、親の形となって産み落とされる草食動物は数時間後には歩き出し、その生存率は高い、
生まれた子のほとんどが成長し大人になるといっても過言ではない、
増えすぎた草食動物が草原を食い尽くし、やがてその集団の全ての食糧危機につながる、
そんなことも珍しいことではないようだ、
アメリカの自然国立公園において、オオカミを駆逐したところ、草食動物(この場合、鹿なのだが)が増えすぎて、結果、餌場となる草原が不足し、群れ全体の死滅にまで発展しそうになった、
その対策として、駆逐したはずのオオカミのつがい二対をアラスカから運び入れ、適度(!?)な間引きを行わせた結果、自然界のバランスが保たれ、今日も維持できている、
つがい二対は今では十数頭の集団となり、年間数十頭の草食動物を減らしているのだとか、、、
自然公園(国側)と、オオカミの被害を訴える牛や馬を飼う近辺の牧場主側との対立という混乱が二次的に引き起こされたことは想定外だとして、、、
以上は自然界のこと、
誰でもいいから人を殺したかった、父親も母親も殺そうとした、中学時代から猫の解剖をした、
猫だけでなく人も解剖してみたかった、
仲の良かった同級生の少女を殺害し、首と手首を切り落とし、胴体の一部にまで損傷を与えたという少女が逮捕された、
父親は弁護士であり地元の名士でもあったらしい、
父親の再婚をめぐっての少女の揺れ動く内心を省察したコメントも一部みうけられたが、ぼくは違うと思う、
誰でもいいから人を殺したいと、ぼくはこれまで思ったこともなかった、
父親も母親も殺そうとはしなかった、
猫の解剖にいたっては想像すらできそうにない、
生きたまま解剖することはできないはずだから、殺してからのことになるのだろうが、猫を殺すという行為が、ぼくの精神世界のどこを見渡してもでてこない、
そうした発想がぼくにはない、、
結論をいおう、
この少女の存在は人類にとってなじまない、
この世界にあってはならない存在なのだ、
人を殺す自由を認めたら(もしそれが自由という行為に該当するものとして)、殺されないための自由もあっていいはずなのだ、
貧困、飢えからの自由が、今日でさえも基本的人権の中核をなしているように、殺されない自由というものは、殺す自由より上段に据え置かれるべきなのだと、殺す側よりも殺される側に位置しているぼくは考える、
今後、この少女がどのような処遇を受けるのか、関心度は高いのだが、ぼくのなかで答えは既に出ている、
高校時代に読んだアメリカのミステリー作家、エラリー・クイーンの小説「Yの悲劇」の中に、その答えはある、、
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