気が狂うという意味で、キチガイと打ち込み変換させたところ、基地街としか変換できなかった、
気狂い、と変換するものだと思っていたのですこし違和感を覚えた(実はこれはウソ、以前にも同じことをやっていて変換できなかったのは既に確認済みなのだ)。
このような漢字変換に伴う差別用語の撤廃というのか、漢字変換をできなくさせた例は他にも幾つもある、
小人もそうだった、
さまざまな肉体的ハンディキャップを負った人々の一般的な呼称だと思われていて、以前には普通に使われていた言葉が、まずテレビやラジオ、新聞から消えた、
当然テレビ中継された演芸の世界からも追放された、
テレビ中継されていない場面では、そのものずばりの呼称で演じられていたのだが、
少し脳がヨワイ好青年を与太郎という、、、
八っつあん、熊さん、大家さん、知ったかぶりのご隠居、大工の棟梁(頭領)、とおなじみの落語の世界、
お袋に世話ばかりかけていっこうに働こうとしない与太郎を、大家さんがみかねて説教する、
「おまえね、いくつになったい」
「あたい、あたいはね24歳」
「24にもなって家でぶらぶらしてるって、どういう了見だい。ええっ、お袋が泣いていたぞ」
「あたいも悪い男だ」
「なんでだ」
「年増を泣かせる・・」
「だからお前はバカだってぇんだ」 (え~ただいま演目最中に不謹慎な用例がが用いられました、謹んでお詫び申し上げます)
こうなったら、それはもう芸ではない
そうした世間の風潮に抗議し筆を折った作家もいた(これを書いている時点ですでに復帰している)、
言葉だけを陽のあたる場所から隠してみても、そのハンディキャップを抱えている人々が置かれている差別的な状況から掬わない限り(救わない、でなくて)、差別的構造の改革にまるで意味をもたないのは当然だろう、
言葉の差別的な用法を無くしたから差別がなくなりました、私たちは差別はしていません、
これって、どこかおかしい、じゃない?
小人プロレスという興行が以前存在した、
なぜか女子プロレスと同時に興行されていたのだが、その可笑しさといったらなかった、
審判の股ぐらをかいくぐり、相手の足を蹴る殴る、全く効いてもいないパンチ(だと思えるのに)にすぐ倒れる、
スポーツとは真逆のその演芸の世界を見て腹から笑ったものだった、
このプロレスが中止になったのは、身体的なハンディキャップを見世物にしているから悪だとのご意見からだった、
ご意見はご意見でけっこうなのだが、興行が中止になり(会場は公共の場である市立体育館だとか、区立スポーツセンターなどが多かったのだが、そこでの会場使用を断られたのだ)、そしていつしか無くなり、それで実際に困ったのは、ケッコウなご意見を宣(のたま)ったごリッパな人々ではむろん無く、そのプロレスで実際に芸を演じ、そこから収入を得て妻子を養い生活をしていた、多くの小人とよばれたハンディをもった人々だった、
ということに、どうして気がつかないのだろう 、、
「プロレスの仕事が無くなってからどのような生活をしていましたか?」
「えっ、結局さあ、生活保護しかなかったよ・・・」
自立の道を閉ざしておいて、生活のスタートラインを健常者の遙か後ろに引いておいて 、言葉での差別はなくしておいたのでこれで公平です、さあ、ドンと鳴ったら同時に走りましょうだ?
ふざけるな、その思想こそが差別の根源だろう!!
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