2019年3月8日金曜日

友人たち

友人たちが、それぞれの手土産を持参し来宅、
今度の日曜日が句会当日なので、それに合わせて勉強会?のようなおしゃべり会を毎回開く格好になって数ヶ月が経つ、
珈琲とちょっとしたお茶菓子は我が家で提供する、
一ヶ月に一回の集まり、お久しぶりの顔ぶれが嬉しい、

毎回のことなのだが、今回も友人たちからたくさんのものを頂戴した
(この場合のものは、決して物と漢字で書かないように、その物でなく、心のこもったもの、だから、結婚し築き上げた二人のもの、と書いても、二人の物とは表記しない)
タンスや冷蔵庫なら、ふたりの物だけどさ、、


摘み立ての綺麗に洗われた野生の田芹、ジャム2缶、いちご1パック、なぜか数の子、、
はっきり言ってもらい過ぎなのだ、嬉しい♪


まだまだわからないことがたくさんある俳句の世界、
友人たちより作句年数だけは自然と経ってしまったので、アニキとかニイサンとかと呼ばれているけれど、中身は経験だけでお茶を濁している、、

と、書きながら「お茶を濁す」という言葉の語源を知らなくて何気なく使ってしまっている、調べればわかるのだろうけど、今はその気が無いので、そのままにしておく、
こういう言い方、放っておくやり方が、ぼくの場合、けっこう多い、
まあ、気にしないで、、

俳句って、575の17文字の世界?
そうだとも言えるし、そうでないともいえる、字余りは普通のことだし、字足らずは、滅多にみないけど、大昔の、前衛俳句時代には、み とか、そ とかの一文字の俳句?もあったという、、
さすがに、削って削って削った故の字足らずとはいえ、一文字で俳句とはいえない、と
すぐに飽きられ姿を消してしまったとか、それはそうだろう、、

季語がない俳句も一部ではまだ作られているようだし、575で体裁を整え季語を入れる、という世界を縛りととらえるのか、その中での自由な世界を楽しむとするのかで、世界はずいぶんと違ってみえるはず、、

たとえば絵画の世界、前衛か古典かでいうと、キャンバスに収まっている限りは少なくとも伝統的絵画の世界だと思う、
キャンバスをはみ出し抜け出すその世界は、知っている限り前衛絵画の世界でしかない、
バケツの中にさまざまな色のペンキを入れ、そこにボクシングのグローブを漬け込んで壁にむかい殴りつける、一回一回色合いが違うことはもちろん、気合い、迫力、それぞれ違うものができるとはいえ、決して欲しいとは思わない、

それが芸術かどうか、その点からの回避ではなく、誰かがやってしまったことだから、それの二番煎じはつまらないと、思うからだ、、
グローブでなく身体に塗りたくって紙に向かってぶつかっていくゲイジュツもどこかでみたことがある、
まあ、精神は同じようなものだろう、

その意味で、575の世界はキャンバスの中の世界、その中で気に入った作品や、名作佳作ができるはずだと思っている、

といいながら、最近の自分は、575の文字数や季語にもあまりこだわっていない、
類想句ではないか、詩心があるか、こだわるのはそんなところか、、

月に10句も作るわけではないので(それでも年間に100句、んーー)、一つ思い浮かべると、溶けるまでなめ尽くす飴玉のように、その句をひねくり回している、
そのうちに溶けてなくなってしまうこともしばしば、

美味しいからなくなるのか、元々大した実体がないからなのか、それはわからない、、、


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