あいかわらず本を読んでいる、乱読雑読淫読の日々をおくっている、
図書館にも通うのだが、置いてある本が古く、新刊本の数が少なく、あっても誰かが借りていてなかなか、手に入らない、
興味ある本に行き着かないこともしばしばなので、どうしても自分で買うことになる、
なにしろ、パソコンコーナーには、いまだに「WindowsXPの使い方」やらが置いてあるのだから・・、
利用するのはもっぱらアマゾン、
気に入った作者の著作に掲載されていた、紹介されていた本を追いかけたりして、本がどんどん増えている、
ちなみに最近追いかけたのは、亡くなってしまった女優の高峰秀子さんのエッセーいろいろ、
映画「二十四の瞳」の大石先生を演じた方だといえば、ある程度の年配者ならば皆、わかるだろうか、
生涯に400を超える映画に出演した、日本を代表する大女優、
彼女のエッセー数冊を手に入れ、しばらく(二週間ほど)読み暮らした、
そのあと、新劇出身の女優、吉行和子さんのエッセーやら、エッセー+俳句やらを数冊、
今は、また以前にも目を通した開高健氏の著作にもどっている、
彼のエッセー集「白いページ」が最近のお気に入りで枕元に置き、睡眠前の小一時間、愉しんでいる、
それは、文庫本サイズにしては分厚く、厚みは4cmはあろうかと思われる、
文の容量もエッセーの内容もぎっちりと詰まり、読んだあとも最中も、活字の洪水に襲われたかのよう、
開高節ともいう言葉のつながりを次々に書いていく書き方、いわゆるこれが彼の文体というのだろうか、
よくここまで思いつくものだと感心させられる、
学生時代に何かの授業で、テーマ(主題)や内容がその作家なのではなく、文体こそが作家なのだ、としきりに主張した講師が居たことを思い出した、
そういえば、野坂昭如氏のあの饒舌な文体、松本清張氏の乾いた文体、大江健三郎氏のいかにも翻訳調なあの文体、山本周五郎、藤沢周平、池波正太郎、吉村昭、本多勝一、志賀直哉、漱石、龍之介、鴎外、、
これまで読んできた日本文学のさまざまな作家の顔やら本やらが、ここに掲げた以外のいろいろな作家も含め、思い出されてくるのだ、
こうしてみると、女流作家が出てこない、
有吉佐和子、山崎豊子、武田百合子さんら、目にもし手にも取り、読みふけった作家たちもいたのだけどね・・、
写真は、いつだったか昔、撮ったままになっていたもの、
それ自体がゴミになってしまっているという自虐風景が、人の社会にもあてはまる光景があるような気がしてなにやら面白かった、、
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